2012年3月12日月曜日

人を励ます。

人を励ます。
そのことに意識が向いたのは震災以降だった。
被災者のために自分は何ができるのか。考えれば考えるほど、すべての行為が自分に対する癒しのように思えて、後ろめたさでがんじがらめになったこともあった。義援金を送ったのも、ボランティアに出掛けたのも、黙祷したのも、誰のためでもなく自分のため。素直に認めがたいが、実際そうなんだろう。気づいたときは愕然とした。

一方、後ろめたさの代償行為ではなく、もっと身近な、縁があって付き合っている人たちに、言葉をもって「励ます」という意識がわいた。これは話し方を学びはじめたことが大きい。

今日のC教室で学んだ「表現の原則」に、いみじくも肯定的な表現は相手の自尊心を尊重する表現だ、という内容が含まれていた。まさにそういう意識が高まったんだと思う。

多くの人にとってこの一年は、自分の人生観を総点検する年になっただろう。一方で、どのような言葉を使うか、瞬発的な選択を迫られた時期があったように思う。
テレビやネットでは剥き出しのネガティブ・ワードが溢れた。その過激な言葉に触発された多くの人たちが、その言葉を日常で繰り返す。

確かに理不尽なことは多い。政府、東電、原発に対しては誰もが一家言を持つだろう。
しかしその「呪いの言葉」は、発した人自身をも疲弊させていくようだ。実際、自分がそうだった。震災にまつわる否定的な言葉の蓄積が、自らのメンタルをどす黒く侵していく。

厄介なことに、そのモードは我々の日常にも引き摺られているように映る。
この現状は、自らの言葉までも再点検して意識しなければ修正できないのが実感である。負のスパイラルを止める手立てとして、手に入れた「肯定的な表現」を柔らかな武器として今後も使っていきたい。

あ、柔らかな武器っていい言葉かも。

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