2011年12月26日月曜日

最後の三分スピーチ

今年最後の朝礼で三分スピーチが回ってきたことに運命を感じる。
と書いたら大袈裟だろうか。いや、そんなことはない(反語)。

総決算である。

なにしろ一年間、話し方教室に通い続けた。東日本大震災の翌日も誕生日もクリスマスも通った。
話し方を徹底的に学ぶ一年と決めて何よりも教室を優先した。

まわりを驚かせるために。
自信をつかむために。
自分を変えるために。

ドキドキしながら足を運んだ初日は昔日の彼方。本当に長い一年だった。

教室に通いながら気づかなかった自分を発見していった。
コンプレックスであるはずの声を「いい声だ」と褒められる。にわかに信じられなかった。しかし、いろいろなところで繰り返し褒められる。
笑顔の印象がいいと言われる。以前からそう言われることはあった。しかし、それを長所と言える長所だとは受け止めていなかった。

けっしてゼロからのスタートではなかったのだ。

これまでの経験とその醸成。短所ばかりに目が向いていた。自分の長所が、いつの間にか、見えないようになっていた。
新しいことを始めるたびに浮かぶ「もっと早く始めればよかった」という後悔は不思議となかった。これまでの経験があったからこそ、今ココに立っている。


今年最後の三分スピーチにのぞんだ。
準備も入念にした。
一週間前の月曜教室で披露し、昨日の日曜教室で反応を確かめた。
冗長にならないよう、まどろっこしい部分を一切、カットした。

舌の運動、表情筋の運動、腹式呼吸、外郎売り、水分補給……通勤中、朝礼直前にできることはすべてやってスタンバイ。
気楽に行こうよ。年が変わったとしても終わりなき日常は続くよ、という気持ち半分。
そういう余裕を持てること自体も成長だが、それ以上に区切りのスピーチだという意識が強かった。成果を出さないといけない。やってやる。強い意気込みが、所詮スピーチという気楽な心境を上回っていく。絶対に手を抜くな。照れるな。

緊張感を与えない自然な表情、第一声で大きく通る声を出す、冒頭で主題を伝える、ジェスチャーを交える、視線のデリバリー、疑問文の問いかけ、なりきった台詞まわし、ワンセンテンスを短く、レペティション、コンパクトな〆……。

一つ一つのチェックポイントを意識できた。

特に講評されるわけではない。誰かに感想を言われるわけでもない。
ただ、今やれるものを出せた満足感はあった。

以前、友人の結婚式で頼まれてスピーチに立った9月某日。満足感はあったが、ここまで準備をして、この程度しか話せないのか、という思いも一方であった。

厳しく反省すれば、今回もその思いに近くもある。
視線のデリバリーを急ぎすぎたり、細かい表現にこだわり言い直してしまったり、間を活かし切れなかったり、真実味のある心情吐露がなかったり……。

ここまでやって、この程度なのか。
そう考えることもできる。
しかしその繰り返しなのだ。
それでもすべてが糧になっている。

この一年の成果を今の自分として受け止める。
でも、まだまだこれからだよ。

ぼちぼち来年の計画でも立てよう。

新しいスタートに向けて。
「今日という日は残された日々の最初の一日」なのだから。

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